誹謗中傷か批判かは受け手のダメージとは関係ないよ、という話
なんか大昔にブログで「誹謗中傷かどうかよりも、量が問題だったりするよ」系の話をしたことがあります。もっと批判や異論がくるかなと思ったのですが、かなり賛同をいただいてびっくりしたんですが、異論の中であったのが
- 「それでも誹謗中傷が問題なんだ」
- 「量も大事かもしれないが、それよりも、順番として、誹謗中傷が駄目だと言い続けるべきではないか」
あたりでした。
これはおそらく視点による解像度の違いだと思っています。
おそらく、「誹謗中傷はとにかくいけないもの」という感覚があるから、僕の「誹謗中傷よりも批判量」の話に違和感を持つのではないかと思いました。
というので、その点について書いてみたいと思います。
視点を替えてみると
まずは、言う側と、言われる側の視点を替えてみたいと思います。
言う側の人が考えているのは「それに正当性があるかどうか?」が重要です。
当然、多くのまともな人は「正当性がない攻撃(=誹謗中傷)はダメだよね」と思っています。言い換えると、正当性がある攻撃(=批判)は、良いもの、と思っているイメージです。
イメージとして、万引きした中学生がいたとして、その人に
「そういうことをやるのはよくない。犯罪だし、店側もとても困るんだ。ちゃんとお金を払いなさい。」
と伝えることは正当性があるように感じます。
一方で、
「こんな犯罪を犯すなんて、お前は本当に最低のクズ人間だな。お前の親はどういう教育をしたんだ。犯罪者の親は犯罪者なんだろう。そういえば、お前はあの地域に住んでいるな。あそこに住んでいるのは犯罪者ばっかりだ。二度とこの街に来るな、この盗人野郎!」
みたいなことをいったら、いくら相手が犯罪をしてたとしても、誹謗中傷となります。
別の例として、セール中のものを買った人に対して
「定価があるのにセール中に買うなんて、店側は収益が減って困るんだからやめようよ。」
というのは批判ですが、正当性がさほどありません。
ということで、言う側の人にとって大事なのは、「正当性があるかどうか」なのです。
ざっくり図にするとこんな感じです。
言う人側に立ってみると、これを見ても違和感はほとんどないのではないでしょうか。
そこで、視点を変えてみます。誹謗中傷や批判を受ける側になってみると・・・。
こんな感じになります。
傷つくものだといやですし、傷つかないものは「どうでもいい」と感じます。当たり前ですね。
で、人によってはこうだったりします。
何を言われてもあまり傷つかないタイプですね。当然、逆のタイプもいます。
何を言われても傷ついちゃうタイプです。
んで、ここからがすれ違うポイントなんですけど・・・。
言う側の人からしてみたら、攻撃に正当性があるかが重要であり、正当性があると思っているものは、受け入れるべき、と思いがちです。正当性があるわけなので。
めちゃくちゃ部下にパワハラしている人に、「パワハラはいけないですよ」というのは正当性がある批判ですが、それでパワハラした人はめっちゃ傷ついちゃうこともあるわけです。「そんなひどい批判を受けるとは思わなかった。傷ついた。もう会社やめる」とか言われると「は?」ってなりますよね。
一方で、言われる側からしてみると、傷つくものであればなんでも嫌なわけです。そこに「誹謗中傷」なのか「批判」なのかは、あまり関係ありません。
整理すると
というので、上の2つのマトリックスを整理すると、こんな感じになりそうです。
で、言う側の視点でいうと「正当性があるかどうか」が重要なので、傷つく、傷つかないに関わらず、誹謗中傷かそうでないかのほうが気になります。
相手が傷ついていなくても、誹謗中傷は正当性がないからだめだよね、というふうに思いがちです。
で、受ける側としては傷つくかどうかのほうが大事です。
言い換えると
言う側・・・「誹謗中傷や批判を言う側は、自分に正当性があるかないか?で考える」
言われる側・・・「自分にダメージがあるかどうか?のほうが重要に感じる」
ということです。
整理してみると、めちゃくちゃ当たり前ですね!
ダメージが大きいもの
意外と思われるんですが、強い表現でも傷つかない誹謗中傷はあります。
たとえば、僕が
「けんすうって天パ業界だと最下層中の最下層だよね。根本は全然パーマしていないし、毛先も弱いし。あんなのでえらそうに天パ顔してて恥ずかしくないのかね?ああいうクズはさっさと直毛になればいいのに」
と言われると、誹謗中傷ではあると思うんですが・・・、たぶんダメージは全くありません。
なぜかというと、天パ業界にいないからです。言葉は強い誹謗中傷なんですが気になりません。
一方で気にしていることなら正当性があることでも痛いわけです。たとえば「あいつの作っているサービス、ここがつまらないよね」みたいに言われると言い返せないけど辛い気持ちになります。
他にダメージが大きいものは、たぶん
- やってしまったことに対しての正当な批判
- 気にしているコンプレックスなところへの指摘
とかなんですが・・・。
大事なのは「正当性があるもののほうがダメージとしては痛い」という傾向にあることです。
たとえば、ふざけて「バーカバーカ」といったときに、友達のお子様(4歳児に)、
「人にバカと言うのはよくない。たとえ、そう思ったとしても言わないべきである。いい年をした大人がそのような人を攻撃する言葉を発するのは、さすがに配慮が足りないのではないか。友人同士のふざけたやり取りであるなら理解もできるが、それなら分別のつかない小さい子供の前では控えるべきだと思われる」
という趣旨のことを言われて事があるんですが、これ、正当性が100%ありすぎて、傷つきました。
傷ついたというとアレなんですが、自分が悪いと100%確信できる内容なので、自分を許せない気持ちで、より精神にダメージがくるという感じです。
だいたいの人は批判は受け入れるけど
もちろん、よほどの人でない限り、大体の人は「まっとうな批判であれば比較的受け止める」傾向にあるので、いきなり「傷ついた!」と怒り出すケースは稀です。
これはコップみたいなもんで、ある程度の限度がある感じです。
こんなふうなイメージですね。
これの量がぐわっと増えると、受け止めきれなくなります。で、溢れた批判に対して「パワハラはしたけど、みんなもやっているじゃないか」「なんで自分ばっかり責められるんだ」「そこまでいうことじゃなくない?」みたいな防衛本能で反応しちゃったりします。
しかし、言う側からしてみると、他の批判が見えているわけじゃないので「え、正当性がある批判をしているのに、そんなことをいうなんて、全然反省していない。とんでもないやつだ」となってしまうのです。
一人の個人として、適切な批判をしたのに、周りに大勢批判をした人がいたことで、知らないうちに限度を超えていて、その限度を超えたことによって、防衛本能で反応されたりしたのを、逆ギレされたように見えてしまうんですね。
で、また批判が集まってしまう。「悪いことをしているのに逆ギレするのはよくない」という、まともな批判がくることで、またダメージが大きくなっていくという感じです。
というので、誹謗中傷だろうと批判だろうと、ダメージはあるよ、むしろ正当な批判のほうがダメージが大きいケースすらあるよ、という話なんですが、なぜこの話を書いたかというと、、、
「批判の量が多いことが罰になるのであれば、過剰に厳罰化することはよくないのではないか」という気持ちがあるからです。前にも記事に書きましたが。
1の罪に対して、100の罰を投げてしまうと、社会が荒れます。なんで、抑制したほうがいいと思っているのです。
一方で、言う側としては、「普通の批判を、常識の範囲でしただけ」なので、意識改革や、啓蒙活動ではどうにもならないのが難しいーと思っています。普通の批判をするな、というふうになると、言論活動ができなくなるのでよくないですしね。
というので、毎回毎回、この問題を考えるたびに解決策が見当たらないのですが、このあたりは、SNSとかのサービス提供者がちゃんとコントロールできる仕組みを入れない限り、解決できないのかもねぇ、、と思っています。
余談
余談ですが、古川健介で検索すると、関連するキーワードとして「人間の屑」とでます。
サービス提供者のGoogleさんは、僕を人間の屑扱いするのはやめてほしいです!