インターネット時代の罪と罰のバランスはどう取るのがいいんだろ?
前回、こういう記事を書いたんですが、結構読んでいただきました。ありがとうございます。
ほとんど、というか99%が、内容をちゃんと読んでいただいた上で、賛同してくれたり、ちゃんとしたご意見をいってくれたりしたのですが、やはり反対派の意見としては「批判することが萎縮するのはよくないのではないか」「悪いことをした人が、自分への批判を避けるために、この記事が使われるのではないか」ということでした。
これは僕も本当に悩んでいて、どのくらいの批判量が最適なのか・・・というのがわからないのですが、迷っていても答えがでない気がするので、今回も今考えていることを書いてみたいと思います。
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テーマとしては「罪と罰のバランスをどう考えるといいんだろ?」ってことで、基本的には前回書いた記事と大差ないです。あとちょっと長いですが、たいした結論はでないので、同じ課題感を持った人が、思考の整理をするために読む、程度くらいしか価値がないと思います。
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罪と罰のバランスが崩れてはいけない?
前提として「罪と罰のバランスが崩れたら社会にとってはよくないのではないか」というところから考えていきます。
まず、先程紹介した「誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話」で何を書いたのかを今一度、説明しますと、
- 正当な批判はOK、むしろ世の中的には必要なこと
- しかし、「点」としての批判が正しくても、大量に来ること自体が大きなダメージになる
- 1つ1つが正当性がある意見だとしても、大量に浴びせさせることは善か?
みたいなことを書いた記憶があります。たしか。
なぜそんなことを書いたかというと、1つの罪に対して、1の罰を与える、というのが正当だった場合、1の罰を与える人が1万人いたら、1つの罪に対して、1万の罰が与えられることになって、バランスが崩れるんじゃないか?と思っているからです。
「目には目を」という有名な言葉があります。ご存知の方も多いと思いますが、これは「目をやられたら、目をやり返せ!」みたいな、復讐をすすめる言葉では当然なく、「報復の仕方やその程度は、受けた被害と同じくらいでなければならない。」という考えです。
Wikipediaさんによると以下みたいな感じです。
「目には目を、歯には歯を(タリオの法)」
「目には目を、歯には歯を」との記述は、ハンムラビ法典196・197条にあるとされる(旧約聖書、新約聖書の各福音書にも同様の記述がある)。
(中略)
ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。財産の保障なども含まれており、奴隷階級であっても一定の権利を認め、条件によっては奴隷解放を認める条文が存在し、女性の権利が含まれている。
「目には目を、歯には歯を」という言葉に表される規定は同害報復(タリオ)と呼ばれ、罪刑法定主義の起源とされる。このような刑罰思想は先行するウル・ナンム、リピト・イシュタール、エシュヌンナの各法典には見られない。同害報復は古代における粗野で野蛮な刑罰とされてきたが、「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」すなわち、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることがこの条文の本来の趣旨であり、刑法学においても近代刑法への歴史的に重要な規定とされている。
- Wikipedia「ハンムラビ法典」 / 太字は筆者によるもの
つまり、「倍返しだ!」みたいなことをやっていると、めちゃくちゃ報復合戦になるので、社会が混乱するよね、みたいなことなのかなと。
村上龍さんの小説に「昭和歌謡大全集」というのがあります。
夜な夜な集まりカラオケ大会に興じる若者たちと、名前が一緒というだけで親交を深めるおばさんグループ『ミドリ会』というのが、ひょんなことから対立するんですが、お互いに復讐をし合うことで、ナイフ、包丁、トカレフ、ロケットランチャーと、凶器がエスカレートしていくという話です。
そんな感じで、復讐は復讐を起こすので、限度を定めておかないとキリがないんですね。
他にも、「罪を犯す人をへらすのに、厳罰化は効果がない」と言われてたりもします。逆効果という説もあります。
アメリカでは、三振法 / スリーストライクス・アンド・ユー・アー・アウト法、というものがあります。これは
制定当初は重罪(felony。多くの州では死刑又は長期1年以上の刑の科せられる犯罪)の前科が2回以上ある者が3度目の有罪判決をうけた場合、その者は犯した罪の種類にかかわらず終身刑となるという立法であったことから、野球の三振になぞらえて『 Three-strikes law(三振法)』の名がついた。
というものなんですが、
一方、二度の犯罪歴を持つ者が軽微な違反で三振法に抵触し、2ドル50セントの靴下の万引きで終身刑、またピザ一切れを奪ったとして懲役25年を宣告される事例などが発生しており、刑事罰と犯罪事実のバランスを著しく欠くとして、司法機関からの批判的な見解も示されている。
- Wikipedia「三振法」
ともされています(今は「重罪の前科が2回以上ある者が3度目の重罪による有罪判決をうけた場合には通常より重い刑を科されるとする法律」らしいです)。
極端な例でいうと、例えば「コンビニでおにぎりを盗んだら死刑」という世界だったとして、お腹をすかせた人がおにぎりを盗んだとします。そして、それを目撃してた人が3人いたとしたらどうなるか、、というと、「捕まったら死刑」なわけなので、「その目撃者を消そう」という発想になったりするわけです。
なので、おにぎりを盗んだら、法定刑は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」みたいになっていますし、初犯で金額が少なく、謝罪と弁償をしたりすることで、微罪処分というものになったりするわけです。
「おにぎりを盗んだくらいたいしたことがないんだ」という話をしたいわけじゃなくて、「おにぎりを盗んだら死刑」、みたいに過剰な厳罰化にいくと、むしろ治安が悪化して多くの人にとってデメリットが大きいということです。
というので、前提として「罪と罰のバランスはとっていないと行けないよね」という話です。
当たり前のことしか言っていない気がしてきましたが、いったんの整理として書いてみました。
意図せず罪と罰のバランスを崩してしまうSNS
で、難しいなあ、と思っているのが、SNSによって、過剰は罰が進行してしまうことです。
これを言うと「そうだそうだ、罪を犯した人を過剰に攻撃する社会はおかしい」とみんな賛同してくれるんですが、賛同している人のアカウントを見ると、多くの人が、ニュースや何かの個人の発言に対して、批判をいっていることが多いです。
社会的インパクトが大きい事件や、個人の不適切な発言に批判をするのは、当たり前の行為、少なくても非難されるべき行動ではありません。もちろん、最低限の表現の気の使い方や、内容に対してのファクトチェック、一方的な事実のみを切り取っているものではないか?など疑ってかかる目などは必要だとは思いますが、、、
観測範囲だと、批判をいうときに度を越したことをする人のほうが少数です。
もちろん、炎上をさせたり、痛烈に批判をする人とかもいます。が、よく言われるように、そういう飛び抜けて炎上させる人って、全体の中では相当の少数派です。
このように、ひどい行動や発言をした人に「これは許せない」といったりするのは、社会に参加している人としては、一般的な行動です。これを否定し始めたら、健全ではありません。
にもかかわらず・・・。それが大量に来てしまうことによって、罰の重みが増えてしまったらどうなるんだろう?というのが気になります。
「自分と関係ない事件を見て、わざわざ批判をする必要なんてないんだ」と主張する人もいますが、別に熱心にいろいろな事件や人を批判している人ばかりじゃないと思うんですよね。たまたま目にしたニュースが自分の興味がある話題で、たまたま批判した、というケースのほうが多いと思うんです。
1000万人が参加しているSNSで、1%の人が興味もって、そのうちさらに1%の人が批判を書いたとしても、1000人が批判することになるのが問題という感じです。
なので、繰り返しになりますが「悪意があるわけではない、普通の人が」「ニュースを見た上で、適切な範囲の批判をする」「一つひとつは普通の批判だが、それが1000人分集まると、大きなダメージになる」という構造ということです。
結果として「1の罪に対して、大きすぎる罰が与えられる」というのが起きてしまっているのではないか?というのが僕の問題意識です。
何が問題かというと、解決法が思い浮かばないことです。「批判を先着順にする」とか「そもそもの批判を封じる」とかしたところで、全く意味がない気もするのですよね・・・。
ゴシップのビジネスモデルの問題
ここまで書くと「いやいや、まあ批判とかが大量に来ると嫌だというのはわかるけど、見なければいいんじゃない?」「スルーする能力が大事だよ」という人が出てくると思うんですが・・・。
自分を守るための行動へのアドバイスとしてはアリだと思うんですけど、多くの人は自分への言及をそんなに無視できないというのは見ていて思います。無視できる人は「批判されることに慣れた人」くらいです。
Twitterで、アンチのコメントとかをガンガンスルーできる人を思い浮かべてほしいんですけど・・・。そんな人ばかりが発信したり、表にでる社会のほうが僕は怖いと思うので、「自分の話題をスルーできないような感覚の人」のほうを「普通」と思ったほうがいいと思っています。
というと、今度は「いやいや、罰が多いというけど、ちょっと批判の量が多いだけでしょ?やってしまったことに対しての批判くらいは受け止めるべきだし、しばらくすればみんな忘れるからいいんじゃない?」と思う人もいるかもしれません。
しかし、この「批判によって大ダメージが与えられる」ということで成り立っている反社会的なビジネスもたまに目にするので、放っておくと、冤罪とかも増えそうで怖いなと思っています。
ちょっと長くなりますが、説明すると・・・。
まず、ゴシップがビジネスとして優秀という点があります。週刊誌などにより、不道徳な行動をした人のLINEや、不倫相手などの証言などがガッツリ載る、ということはよくあると思いますが、メディアの中の人とかに話しを聞くと、やはり信じられないくらいトラフィックを稼げたりします。儲かるのです。
ビジネスなので、当然、そういうネタを追い求めるのは合理的ですし、書く時は、バランスをとって書くよりも、「この人はこんなにひどいんだ!」と書いたほうが、賛同を得られて、SNSで拡散するのでより儲かるので、そう書きがちです。誹謗中傷だと訴えられたとしても、せいぜい数百万円くらいの賠償金ですむので、部数が売れるメリットと、たまに訴えられて負けるデメリットを比べると、いけいけどんどんで書いたほうがお得そうです。
なので、週刊誌はゴシップを書くし、ワイドショーでも取り上げる。これはビジネスの仕組み上、なかなか防げません。
で、そこに目をつける反社会的な人たちもいて・・・。
週刊誌にすっぱ抜かれた人とかが何人かいるので聞いてみた話を総合するに、たとえば以下みたいなことが起こってたりします。
(※実際の事例を出すと個人名がわかっちゃうので、だいぶ事実を変えて書いています)
1. とある有名会社に、めちゃくちゃ仕事ができて、パキパキしてて、人気が高い女性の社員がいた
2. その人は、上司にも部下にも、歯に衣着せぬ発言をすることで、愛されていた。
3. 具体的には、誰も逆らえないようなエース級社員が失敗したときに「この無能が!」といったり、「結果出せないなら帰れ!」とかを言っちゃう
4. しかしそれは「優秀な人だろうと失敗する、失敗を厳しく責めたような感じにすることで逆に引きづらない」という考えでやっていて、ほとんどの社員は、本気で言っていると思っていなく、受け入れられている。ほぼ、ネタのような形になっていて、むしろ多くの社員から、そういう「暴言」を期待されていた
5. とある若い社員Bが入社したときに、それを見て、最初は面食らったが、そういう感じなんだなというので普通に受け入れていた
6. そのBが、素行のよくない友達と飲んでいる時に、その女性社員Aの話をしたところ「そいつ、稼いでいるんだろ?それ録音して、パワハラされています、これを週刊誌に売ります、といったら金ひっぱれるぞ」とそそのかす
7. Bは、そこから録音を開始する。大量の「暴言」を手に入れる
8. その素行のよくない友達経由で、そういう系の人たちがよく使う弁護士経由で「暴言を受けて苦痛を感じている。メンタルをやられたので、会社をやめるが、慰謝料がほしい。金額は○○○万円。」という交渉をする
9. 会社側も、Aも当然拒否する。暴言をはいたことは事実だが、会社の中でも問題になっておらず、パワハラというわけではなく、それが会社の中の、特殊なコンテキストとして受け入れられてたからだ
10. 弁護士は「払わないなら週刊誌に売る」と脅すが、法務からは「相手に反社のものがいる可能性が高く、脅しにのって払ってしまうと、反社にお金を払って和解したということで、より大きな問題になってしまう。一度払うと、反社にお金を払ったことをばらされたくなければ、より大きなお金を払え、といってくる可能性がある。払ってはいけない」といわれる
11. 会社が全面対決の姿勢を見せたので、そのテープを週刊誌に売る
12. 週刊誌は「有名企業の名物女性社員、暴言で新人いびり?」のような記事として出す。いい具合に編集された暴言のテープを公開しつつ、女性社員の横暴な発言や態度などを書き、会社側はそれを問題なしといっている、と書く
13. ネットで炎上する。「ひどい暴言」「こんな暴言はいているのに問題がないと言っている会社が信じられない」「パワハラ暴言女は今すぐやめさせろ」みたいな形になる
14. 裁判になるが、Bは不利なので、1年くらいして和解。訴訟を取り下げるが、週刊誌も当然訂正もフォローもしないし、ネットで叩いてた人たちも、事件のその後は追わない。
15. 会社と女性社員へのダメージは残り続ける。事件の詳細をいっても「暴言はいたのは事実ですよね」と、点を切り取られたことを言われるので、名誉回復も難しい
長くてすいません。
こういうことが起きたりしちゃうのですね。もちろん「暴言をいった」ことは事実なので、非が全くないですし「無能」みたいな言葉をいくら受け入れられていたからといって、使うべきではない!という主張もできると思いますし「みんなが受け入れてたふりをしてて、パワハラだと思っている人も多かった」というケースもあって難しいのですが、、
少なくても罰を与えるのは、それがどうだったか、というのは調査をしてみて、聞き込みをし、冤罪が起こらない形でするべきことです。
しかし、週刊誌とかの場合、このように「点でいうと、非難するべきことがある」ところをついて拡大解釈して書いたりするらしいので、冤罪とかが起こりやすく、しかも誰も大きな責任を取らずにいけるわけです。
先程も書きましたが、せいぜい裁判で負けて賠償金100-200万円くらいだと思いますし、部数が売れたりするメリットを考えるとそんくらいのリスクは飲めるはずなので。
というので、SNSによって、ゴシップがメインの週刊誌がより動きやすくなり、それを使う人もやりやすくなっている、というのはあるのかなーと思っています。
じゃあどうするの?
週刊誌批判をするのは簡単なんですが、彼らは彼らで、公益性の高いことをやったりもするので、あれがすべて悪い、という風にするわけにもいきません。政治家の汚職とかをあぶり出してきた実績もありますし。「政治だけやっておけ」とすると、媒体力をキープできない面もあると思います。
じゃあ、読者がゴシップを喜ぶからいけないんだ、無視しようぜ、というのも無理だと思っています。怒りなどの感情は反射的に出るもので、そういうのを刺激しまくる記事を書くのはある程度できるので、それをやられて無視できるような人のほうが少数です。
喜んで読むのは仕方ないとして、ダメージになるなら、批判を書かなければいいんだというのも、最初にいったとおり「まともな意見の批判意見を出さなくなった結果の社会がいいんだっけ?」というと、そうではないなあ、と思うんですよね。
批判を書くなら、書く前にどのくらい批判を書かれているかを見て、多かったらやめよう、みたいな啓蒙をするのもちょっと違う気もするし・・・。
ついつい誰かのせいにして、スッキリしたくなる気持ちはあるんですが、悪者がいないな?と思って困って思考が詰んでおります。「人間にはSNSは早かったんだ」みたいな終わり方もできるんですが、それもなんか悔しいですよね。
というので、どうにもならないところまで思考が煮詰まったので、このくらいで終わりにしつつ、なんかいい意見があったらくださいー!、という記事でした。