日本における匿名とは、自分のことを隠すことではなく、関係性をゼロにすることである

イラスト・たかくらかずき

こんにちは!今日は、過去にPLANETSという媒体で連載してた「TOKYO INTERNET」の記事をこちらでも投稿します。

日本の匿名性についてです!

はじめに

今回の記事は、タイトルでぜんぶ言い切っておりますが、「なぜ日本では匿名性が重要なのか」について書きます。

日本のインターネットでは、匿名による投稿が好まれる傾向があるように思われます。たとえば、匿名掲示板の「2ちゃんねる」や2016年に流行語にもなった「日本死ね」という言葉が生まれた「はてな匿名ダイアリー」などは、匿名で投稿できるサービスの代表例です。

Wikipediaの主要10言語の中で、日本語版はもっともログインをして投稿や編集をする人が少なかったというデータもあります。

日本語版の大きな特徴の一つは、編集をする利用者のうち登録せずにいる利用者の比率が高いことである。2007年12月時点で、編集回数の約40%はログインしない利用者によるものであり、これは主要10言語のウィキペディアのうちで最も高い割合となった。

SNSだと実名で書いたり、友だちと繋がったりしているので、匿名は少ないんじゃない?と思ったのですが、Twitterなどでも匿名利用が多いようです。総務省によると

Twitterの利用者では日本は「匿名利用」が7割を超え、他国に比べても顕著に匿名利用が多い状況にある

とのこと。ちなみに欧米だけでなく、アジアとくらべても、日本は匿名利用が高いというデータになっています。(参考:諸外国別に見るソーシャルメディアの実名・匿名の利用実態(2014年) )

ちなみにちょっと「匿名」について整理をします。匿名といってもいろいろな段階があります。

  • 完全匿名・・・IPアドレスなどの発信者情報も追えない。初期の2ちゃんねるや、昨今のDeepWebなどもこれにあたる。

  • 名無し型匿名・・・名前を記入する必要がないもの。同じ人が投稿を続けても、それらの投稿が同じ人かどうかが追えないもの。今の2ちゃんねるや、匿名ダイアリーなど。

  • あだ名型匿名・・・いわゆるハンドルネームなどを使い、本名を出さない。アイデンティティは統一されているが、現実の自分とは結びつかない。多くのWebサービスやTwitterなど。

匿名性、といって思いつくのが大きくわけてこの3つでしょう。この3つは区別しておかないとややこしいことになってしまいます。

どうしても身元がバレては困るもの、たとえば告発などで必要な匿名は、「完全匿名」でなければなりません。今の2ちゃんねるに普通に書いたら、名前は出ないものの、発信者情報から身元を特定することは出来てしまいます。

「匿名で書けるネットコミュニティ」の存在について議論をすると、必ず「情報提供者を守るために、匿名性は必要だ」という意見が出てくるのですが、これはあくまで発信者情報を守るという意味の匿名であり、トレーサビリティ(追跡しやすさ)の話です。なので、この記事では取り扱いません。主に「本名や、ニックネームを使わないで投稿できる」という意味の匿名について述べていきたいと思います。

「日本人は匿名が好き」というのは昔から言われていました。この議論はずいぶん長く論じられており、僕の知る限り、20年くらい、「なんで日本のネットは匿名が好きなの?」という議論がされています。

そこで、この連載でも、再度、日本と匿名について考えていきたいと思います。

なぜ日本では匿名が好まれるのか

なぜ日本のインターネットでは、匿名が好まれるのか、という点については、まず初期のインターネットにおいて、匿名掲示板が流行したことが影響しているのは間違いないでしょう。

この連載のほかの記事でも述べましたが、「あやしいわーるど」から「あめぞう掲示板」、そして「2ちゃんねる」という大手匿名掲示板が初期に流行し、インターネットにおける中心サービスだったことは見逃せません。

ここでの特徴は、どれも名無し型の匿名性だったことです。つまり、名前を入れる必要がない。重要なのは、ハンドルネームが必要な「あだ名型匿名」ではなくて、「名無し型匿名」が日本で受け入れられたことです。

この、「名無し型匿名」こそが日本の特殊なインターネット文化を作ったのではないかと思っています。アメリカなどの他国でも、ソーシャル・ネットワーキングサイトが流行するまでは、どちらかというとハンドルネーム文化でした。名前欄に適当なハンドルネームを入れて、それで活動するというイメージです。

しかし、日本では、初期段階のインターネット上で、文化を形成していったコミュニティサイトの多くが、「名前を入れることすらいらない」サービスだったのです。

「そもそも、適当な名前を入れるのと、名前を入れないの、どっちも自分だとバレないから大差ないのでは?」と思う人もいるかもしれません。しかし、この2つには実際、かなりの違いがあります。

というのも、人間は、何でも、名前がつくと、そのアイデンティティを統一しようとする傾向があります。たとえば、自分とは全く結びかない名前をつけて投稿したとしましょう。たとえば、「けんちゃん」みたいな感じです。

そして、「けんちゃん」として「バナナは超おいしい」と書いてたとします。そしてバナナ好きと盛り上がったとします。すると、次の日に「バナナは超まずい」とは書きづらくなってしまうのです。そうすると「あれ、昨日はバナナはおいしいっていってたじゃん」「嘘なの?」となるからです。

人間が心理的についやってしまうことなどをまとめた「影響力の武器」という本によると、人間には、「この人は、一貫している」と見てもらいたい気持ちがあるそうです。一貫性が時には正確性よりも重視されることすらある、と。

つまり、自分でネット上の名前をつけて、その名前で活動する限り、たとえ実名と結びつかなくても、自分自身の一貫した態度を守りたい、と思ってしまうのです。

この一貫した態度のことは、言い換えると「キャラ」、といったほうがわかりやすいかもしれません。自分で決めたキャラを統一し続ける必要があるわけです。

キャラとは、元々は物語に出てくる登場人物のことを指す言葉でしたが、ゼロ年代に入ったあたりから、「真面目キャラ」とか、「明るいキャラ」といったような使われ方をしはじめています。Wikipediaでは「コミュニティ内での個人の位置(イメージ)」と定義されています。これもほとんどの人が普通に使っている言葉ですね。

このキャラを統一し続けたくないから、名無し型匿名を好んだ、というのがこの記事での仮説です。

では、なぜ日本人は、キャラを統一し続けたくないのでしょうか?

東洋は関係性を重視する

その理由としては「日本人は個人の振る舞いにおいて、関係性を重視する性質があり、そのしがらみが他の国よりも重いから」ではないかと考えています。

リチャード・E・ニスベットによる「木を見る西洋人 森を見る東洋人」という本があります。

これは、ギリシャ文化を原点とした西洋文化と、中国文化を原点にした東洋文化の違いをいろいろとデータを元に述べられている本ですが、その中に興味深い項目があります。

それは、「日本を含む東洋の人は、他の人との関係性がとても重要だと感じている」ということです。

たとえば、「自分のことを説明してくれ」と言われた時に、日本人は状況に応じて自分を記述します。「僕は職場ではルールに厳しく厳格だ」とか「家では穏やかであまりしゃべらず自己主張は控えめだ」、などといったイメージです。逆に、状況を特定せずに自らを記述しようと思っても、しづらいと感じるらしいです。

東洋の人、いわゆる中国人・日本人・韓国人にとっては、自分というのは「文脈に依存する度合いが極めて大きい」存在と感じるらしいんです。

要は、自分は確固たる一人の人格だ、というより、周りの状況や環境に応じて、変わっていくものだ、と感じているということです。そのため「私は仕事中は真面目だ」といったような形で、自分をとらえているのです。

対照的に、アメリカ人は自己を記述する際に限定条件をつけない傾向があるらしく、「いつ、どんな時でも私は私である」などと感じるとのことです。ざっくりいってしまうと、アメリカ人にとって、自分とは、「常に安定しているもの」という考え方ですが、日本や中国、韓国の人たちにとっての自分とは、「状況や文脈によって変わるもの」ということですね。

この辺りは言われてみればその通りだなと思う人も多いのではないでしょうか。日本人は場所や状況によって色々な自分を使い分けることが多くある一方で、アメリカ人やカナダ人のような西洋人はどんな状況でも自分は自分である、と思っている人が多そうです。

もちろん、これは「傾向が強い」ということにすぎません。アメリカでも環境によってキャラを変える人もいるでしょうし、日本でどこにいても変わらない人もいます。

ただ、傾向として、他の人との関係性を重視し、その中で振る舞いが変わる、というのは、日本のインターネットカルチャーを考えるのに、ヒントになるのではないでしょうか。

つまり、周りとの関係性が重要だと感じる日本人にとっては、ハンドルネームなどを使って交流をしても、関係性が生まれてしまう以上、人格に制限を強く作ってしまうため、言いたいことが言いづらくなるのではないかと。

だからこそ、名前を入れる必要すらなく、関係性を一切生まれさせない「名無し型匿名」が日本で好まれるのではないかと考えています。

関係性を捨てて統一のキャラクターになりきる

ここまで「全員が名無しさんであることから、関係性をなくしている」ことが、日本で好まれると述べました。しかし、日本の匿名掲示板はさらに発展して「全員が同じキャラを演じる」というところまでたどり着いていきます。

これはどういうことでしょうか。

簡単に言うと、2ちゃんねるで話す人達は、みんな2ちゃんねるの名無しさんぽい喋り方になるということです。

普通に考えると、関係性がない状態だったらどんな喋り方をしてもよさそうです。しかし、ユーザーの多くが同じような喋り方をします。

おそらく、日本語が、関係性の中で言葉遣いも激しく変わる言語だからというのはありそうです。たとえば成人男性の一人称も「私」「僕」「俺」などといろいろな言い方があるわけです。仕事場では「私」といい、家だと「僕」、友達では「俺」といった細かな使い分けをしていたりするわけです。

ここでは関係性が一切ない世界だから自由にしゃべっていい、となっても、敬語で「私はこう思います」という人がいたり「僕はこう思うよ」という人がいたりすると、それすらも関係性になります。

そこで、「サイトの中で、みんなが統一されたキャラクターになりきってしゃべる」という特異なことが生まれたのではないかと。

たとえば、2ちゃんねるには、通称「なんJ」というところがあります。いわゆる、「なんでも実況J(ジュピター)」、の略なのですが、ここでは独特の言葉遣いがされます。

たとえば、なんJの住民たちは、自分たちのことを「ワイ」と呼びます。また、ワイに監督などを意味する「将」をつけて「ワイ将」と読んだりします。

また、語尾に「ンゴ」をつけたりします。

「【悲報】ワイ将、大事な会議があるのに盛大に寝坊した模様」
「夜更かししてたらしょうがないンゴねぇ・・・」

のような話し方になります。極めて特殊な言葉遣いです。この言葉遣いの元は、野球に関するものからのものが多いとされています。これは実況系の掲示板では、野球の実況が人気だからではないかと思われます。

元々2ちゃんねるでは、いろいろな言葉使いが流行っていました。ニュース速報などでは、ガツっと手厳しい言い方がされていたりします。一時期流行していた掲示板である「ニュース速報(VIP)」では、VIP語と呼べるような言い方が流行りました。笑う時に、語尾に「wwwww」をつけたりするアレです。

これはもちろん、その身内のみでしか通用しない用語を使うことで、連帯感をもたらすという面もあります。女子高生の流行り言葉と一緒です。しかし、それとはまた別の面もあるのではないかと。

その別の面とは、全員がこのような喋り方をすると、まるでひとつの人格をみんな演じているような形になり、そのことで、関係性が極めて生まれづらい状態を作っている、というものです。

2ちゃんねるなどの掲示板では「半年ROMってろ」という言葉が流行ったことがあります。これは、半年間くらいは、ROM(Read Only Member、つまり読むだけの人)をして雰囲気などを勉強しろ、という意味です。まあ、空気を読め、くらいのニュアンスです。

なぜこのような発言がされるかというと、「初めて書いた人」と「古くからいるユーザー」というのもサイト内で関係性を産んでしまうからではないかと思います。はじめて書いたことがわかりやすい文章だったりすると、異物感を感じてしまうのかもしれません。

はじめて書いた15歳の少年も、古くからいる50歳の学者も、同じ立場になり、一切の関係性がないからこそ、自由に発言ができる。そんな場を求めていたからこそ、日本では「名無し型匿名」のサイトが流行ったのではないかと考えています。

キャラを統一できる土壌はどこから?

しかし、このように、全員が一つのキャラクターになりきるというのは、なかなかおもしろい現象です。

そこで、なぜ、日本人はインターネット上では、より役割を状況や環境に応じて、キャラを演じる傾向が強いのか、というところにも言及したいと思います。

まず、インターネットに閉じず、日本社会全体から見ると、人格を見た目などからキャラ化するということは行われてそうです。オタキングの異名を持ち、評論家やクリエーターなどの様々な一面を持つ岡田斗司夫氏は、ダイエット本である「いつまでもデブと思うなよ」の中で、日本は今、「見た目・印象社会」になっていると主張し、その上で、以下のように述べています。

では、見た目・印象社会の攻略法とはなんだろうか? 見た目・印象社会を最も端的に表す言葉は「キャラクター」である。

「キャラが立っている」「キャラが薄い」「キャラがかぶる」……  こういう使い方をする場合の「キャラクター」である。

たとえば、見た目の印象が「太っている」だと、「大食い」「だらしない」「運動ぎらい」「明るい」などのキャラが浮かぶ。 「メガネ」だと、「知的」「神経質」「運動オンチ」「病弱」などのキャラとなる。

同じメガネでも「リュックに紙袋」だと、オタクというキャラになる。オタクな趣味を持っている、という意味だけではない。「トレンドやファッション、スポーツに無関心。ネットやデジタル情報に詳しい。好きなことにけお金を使う。ロリコン・美少女好き。同じ趣味の人同士だとやたら話が盛り上がるが、普段は無愛想で非社交的」

このような「いかにもオタクっぽい」とされるキャラが、本人の中身がどうかに関係なく一方的に与えられてしまうのだ。 「大阪弁で喋る女性」だったら、与えられるキャラは「ざっくばらん」「おしゃべり」「お金にシビア」「色気より食い気」といったものになる。

いつまでもデブと思うなよ(岡田斗司夫 / 著)

これをお読みの方の中にも、他の人から「○○キャラだよねー」と言われた経験がある人も多いのではないでしょうか。インターネットではなく、現実の世界では、このようにキャラ認定されるということがよくあります。これは岡田氏も述べているように、見た目からの印象が強くあるのでしょう。

もちろん、日本だけでなく、世界的に見ても、キャラクターというのは当然あります。たとえば、海外の映画で、筋肉がすごくて、タンクトップで、大柄の男性を見たら「明るくて快活なのかな」とか「なんでも筋肉で解決するのかな」と思ったりします。そんな感じで、もちろん見た目などから、内面を予測するというのは全世界中でやられていることだと思います。

では、なぜ、「日本のインターネットでは」、キャラを演じることが多くあるのでしょうか。

その理由には2つあるのではないかと考えます。それは

・日本語では「役割語」と呼ばれるものがあるから
・頭の中にキャラがたくさんいるから

です。

まずは「役割語」について解説します。Wikipediaによると

役割語(やくわりご)とは、話者の特定の人物像(年齢・性別・職業・階層・時代・容姿・風貌・性格など)を想起させる特定の言葉遣いである。主にフィクションにおいてステレオタイプに依存した仮想的な表現をする際に用いられる。

とあります。

たとえば、漫画とかでお嬢様キャラが「ホホホ、私のベンツに乗ってもよくってよ?」みたいな話し方をしていたりするケースを見ると思います。

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