
自分を大事に思わないと客観性を持てる
こんにちは!
今日は「自分を客観的に見る方法」みたいなのを書きたいな、と思うのですが・・・。
世の中では「自分を大事にしよう」「自分を愛そう」「他の人に気を使うように、自分にも気を使おう」「自己肯定感を高めよう」みたいなのが一般的になっております。
これについて反対するつもりはなく、僕も「そっちのほうがいいよね」と思っているんですが、一方の考えとして「自分をあまりに重大なものと思うと、扱いが繊細になりすぎて、逆にこまるのでは」というのも持っています。
僕は割と「自己肯定感が低い」「自分は価値がない自分だと思っている」というのがあるので、日々ポジティブに、楽しく生きられてたりするのですね。
そもそも、自己肯定感が低い人に「自己肯定感を高めようぜ!」といわれても難しいところか「自己肯定感が低い自分はダメなんだ」と思うだけなのです。
ということで「自分を大事に思わないからこそ、客観性を持てていいよね」みたいなことを書きます!
客観性
なんでこんなことを書こうと思ったかというと、今日こんなツイートをみたんですね。
けんすうってひと何がすごいの?金産むビジネス作ったことなくても、会社売ったらすごいってなるの?
なるほど、と思ったので、以下みたいに回答しました。
これ「けんすうさんは結果で評価されている人であるはず」という認識で分析しようとすると、訳分からなくなるんです。
そもそも、結果がすごいから注目を浴びている、みたいな性質ではないんですね。どちらかというと
- 何かの行動をしたときに
- その行動の結果が評価対象なのではなくて
- 「その行動をした理由などを言語で説明する」ということがコンテンツになっており、コンテンツ自体がニーズを満たしている
という感じなんです。
人物に評価が集まっているわけでも、注目されているわけでもなくて、どちらかというと「コンテンツが読まれており、なぜコンテンツが読まれるかというと、行動をした理由が、ちょっと他の人とは違う形で解説しているから」とかですね。
昔から評論家とかがやっている解説を、自分で行動をして、自分で解説をしている、というところが、他にあまりないので、ニッチなニーズを満たしています。評論家の場合、解説はあくまで結果論であり、その後の行動に影響を及ぼさないものですが、自分で行動し、自分で解説をして、また行動に移すとなると、その解説が次の行動に影響を及ぼすので、そこに興味が出てくる、という構造なんだと思います。
こうすると、結果が出ても出なくてもあまり価値は変わりません。「これをこう考えて、こうやってみたけど、失敗しました」みたいなのもコンテンツになるからです。
まとめると、
「結果が出ているから、すごい人だと認知されてるんだろう、と思って調べても、全然結果がでていないからよくわからない」
となるのは当然で
- 結果で評価されていない
- すごい人だとは認知されていない
んです。
- 行動を解説しているコンテンツに興味ある人が見ている
という感じで、みんなが閲覧しているのは、人じゃなくて、コンテンツなんです。
ここを見誤ると、解釈が難しくなるので、この前提にたってみるとわかりやすいかなーと思いました!
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