宗教でも推し活でも、対象と自分の距離感は常に変化しているよね
こんにちは!
今日は、全くまとまっていない記事を書きます!まだ脳内にモヤモヤある状態くらいですね。
それは「宗教との距離が遠いと、推し活がはやるんじゃね?」という意見を聞いて、こういうのは本当かよという気持ちもありつつ、、
その中であった「宗教との距離は近くなったり遠くなったりしている」という話があって、そこは確かに似ている部分がありそうだよね、と思ったので書いてみます!
宗教との距離が遠い
日本人は、宗教がないとか無宗教と言われますが、もちろんそんなことはありません。アニミズム的な観点はありますし、仏教的な信仰や、神道も根付いています。
アニミズムといっても、「自然には神様がいるよね」とかで、全く木を切らないみたいなことはしません。日本人は、結構区別をするらしくて「この木は神様だから切っちゃいけないし、丁寧に扱わないといけない!」とする一方で「他の木は切ってもいいよね」みたいなことをするというのを、どこかの本で読みました。世界で見て、これが珍しいのかはわかりませんが、それを書いたのは韓国研究の人とかだったので、ちょっと差はあるのかもですね(本の名前が思い出せない・・・)。
ただ、宗教というもののリテラシーはちょっと低い傾向にあるかなと。例えば、毎週、教会に礼拝に行ったりしている、というカトリックの人は、常に意識するタイミングがあったりするので、リテラシーは上がりますし「聖書にはこういうことを書いてあるよね」とかは知っていると思うんですが、日本人で、仏教について詳しいという人はそこまで多くないと思うんです。
ちなみに、アメリカで数年暮らしてたカトリックの友達は、「アメリカ人でキリスト教の人は、常に一定に信仰心があると日本人からは思われがちだけど、そんなこともなくて。神様との距離が遠いとか、近いみたいな感覚があり、今はちょっと距離が離れているんだよね、みたいな時もよくある」といっていました。
この感覚は面白いなと思っていて。まず前提として「神様がいると信じるところは全く揺らがない」というのがあるので、その信義とか、聖書に書いてあることは真実だと思って読む。しかし、神様と距離が近くなっている時と遠くなっている時はあって、遠くなっている時は「全然、教会とかいけていないし、神様を意識することも最近はほとんどないなあ」とかになる、という感じらしいです。
推し活に似てる
これってやはり、推し活に似ている部分はあるなと。
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