自己肯定感が低くても「自分はやれる」と思える方法
そんなに主義主張がない僕なんですが、「自己肯定感があったほうがいいよね!」という論に対しては、割と反対派だったりするのですね。
僕個人でいうと、自己肯定感はかなり低い。かつ自分も基本的に嫌いなんです。
で、なぜ僕が、「自己肯定感が高いほうがいいよね」という論が広がりすぎるのに反対かというと・・・。理由としては単純です。
想像してほしいんですけど、自己肯定感が低い人が「自己肯定感は高くないといけない」みたいなことを聞いたらどう思うでしょうか。
たぶん、普通に「自己肯定感が低い私はダメなんだ!」となる気がするのです。なんせ自己肯定感低いですからね。そして「自己肯定感を高くするにはどうしたらいいか」と悩んじゃったりします。
一方で、自己肯定感が高い人はどう感じるかというと、、たぶん「自己肯定感が高い私はやっぱりいいんだ!」となりますよね。
というので、あまり自己肯定感が高いほうがいい、という論が雑に広がり続けると、すでに自己肯定感が高い人は気持ちよくなり、自己肯定感が低い人は悩んじゃう気がするのです。
--- ✁ ---
で、自己肯定感が低い僕なんですが、何かやろうと思った時に「自分でもできる」という自信はあったりするのですね。
なので、自己肯定感がなくても、ほとんど困っていないのです。
ということで、「自己肯定感が高いほうがいいよ」と啓蒙しても自己肯定感が低い人は落ち込むばかりで、何もよくなっていないので、「自己肯定感が低かったり、自分が嫌いでも、やれるって思えるようにする方法」を教えるほうが良いんじゃないかなーと思っていたりします。
自分は自分をどう認識しているか?
というわけで「自己肯定感がなくてもやれると思える方法」を説明していきたいんですが、ちょっと論理が何ステップかあってややこしいので、うまく説明できるかどうかわかりませんが、、、がんばります。
まず、「自分は自分をどう認識するか」からいきます。
多くの人が「自分は自分の考えていることがわかるから、自分が一番自分のことを知っている」と思っていますよね。
だけど、それはたぶんちょっと違うのです。
「ずる」という本で、「自己シグナリング」という考え方について書いてあります。これは「自分や自分の性格は、他の人が自分を判断するのと同じように判断する」みたいな考え方です。
ということは、要は「自分で自分の行動を見て、自分の性格とかを判断している」ということです。ある人が他人を判断するときは、相手の行動を見て「こういう性格かな?」と思ったりするのと同じということですね。
ということ、まず一つ目として「自分は自分の行動をみて、自分の性格を判断している」ということになります。
自分の行動はどう決まっているか?
で、、、じゃあ、その「自分の行動」はどこから来るかを考えます。
めちゃくちゃ雑にいうと、自分の行動は「周りが自分をどう扱うか」によって変わるのではないかなと思っています。
たとえば「バ美肉(バーチャルな美少女に受肉の意味)」という言葉があります。バーチャルな美少女のキャラクターに、男性がなって、女性として配信する、みたいなやつなのですが・・・。
こういうふうになるらしいんです。
これは「自分の見た目に影響されて行動が変わる、そしてさらに影響されて性格まで変わる」というおもしろい事例だと思います。
美少女キャラクターになりきると、中身も女性ぽくなるというのは、他の人からもよく聞きます。友達は、Vtuberとして美少女になったら、明らかに小物とか服とかの趣味が、かわいい女性が好きそうなものになったといっていました。
「亜人ちゃんは語りたい」という超おもしろいマンガがあるのですが、そこで主人公の高橋先生が女性化するシーンがあります。
身体が変わると、性格も(ある種、ステレオタイプな)女性ぽさを意識するようになったりします。イメージこんな感じです。
これらは「見た目に行動が影響を受ける」とも見えるんですけど、どちらかというと「見た目が変わると、周りの扱いも変わる、周りの扱いが変わると、それに合わせた行動をするようになる」ということじゃないかと。
そして、「自分の行動を見て、自分はこういう性格じゃないか、と自分が判断する」となるわけです。
ややこしいですね!
いろいろな整合性や例外を一切無視して、わかりやすく断言するなら
周りの扱いが変わる→自分の行動が変わる→自分の性格が決まる
こんな感じだと思います。
周りの扱いが大きく変わる時
で、、、今見たVtuberなどの例でいうと「見た目によって周りの扱いが変わる」という小さいものなんですが、もっと大きく影響するものがあります。
それは、時代や国などの、大きな環境です。
たとえば、真面目な警察官がいたとして、それが第二次世界大戦時の、独裁の軍事政権下で、民族浄化を方針として掲げている国と、21世紀の平和で豊かな国の場合、期待される行動はだいぶ変わるはずです。
軍事政権下では、政権に異を唱える人を厳しく逮捕しまくるのが評価されたりしますし、平和な国の場合、道案内などを優しくすることを期待されたりするわけです。
まったく同じDNAを持った人でも、おそらく、時代や国によって周りの扱いが変わるので、行動が変わり、そして性格も変わるわけです。
と考えると、だいたいの個人の性格とかは誤差みたいなもんで、状況や環境によって生み出されているもの、と考えるほうが合理的です。
たとえば、明治維新の立役者たちは、「あの時代のあの瞬間、あの場所に、たまたますごい人たちが集まった」というより「歴史の流れの中で、その役割の人が必要だった」みたいな感じなんだと思います。
江戸時代の歴史の中で、たまたまピンポイントで優秀な人たちがあの瞬間に、同じ場所で出てくるはずはないですよね。
役割論
というので、個人が成功するかどうかは、その人の高い能力や才能のおかげではなく、時代などによって、誰かに役割が付与されただけなのではないかと思っています。
僕らは成功者をみると「その人の努力や才能で成功した」と思いがちですが、時代の流れとかで、たまたまその場にいた人だから、というのは大きな要因なんだと思います。そういえば、大きく成功する人ほど「自分のおかげではなくて、運や周りのおかげ」といったりしますよね。
スティーブ・ジョブズはたしかにめちゃくちゃ偉大ですが、彼が2000年に生まれて、今20歳だとしても、今から世界一の企業は作れるかというと、だいぶ可能性は低いはずです。
「進撃の巨人」でもこういうシーンがあります。
こういう役には多分順番がある…。
役を降りても…誰かがすぐに代わりを演じ始める。
どうりでこの世からなくならねぇわけだ…。
というわけで、僕が思うに・・・
成功者というのは、時代という大きな流れの中で、必要な役割があり、それがたまたま付与されただけの存在なんじゃないかと思います。
ジョブズがいなくても、おそらくパーソナルコンピューターは普及して、スマートフォンも普及したのではないかなと。それが10年早いか遅いか、くらいの影響度はあるかもしれませんし、UIなどもだいぶ変わっているかもしれませんが、それでも大きな流れでいうと誤差です。
ということを書くと、すべての運命が決まっていて、人の努力では変更できないという「宿命論者(運命論者)」だと思われたりするかもなんですが、そこまででもなくて。
人は人の努力によって、いろいろなものを進化させてきました。なので、ひたむきに、何かをやるというのは超重要だと思っています。
ただ、今の時代に、伊藤博文が20歳だったとして、総理大臣になれるかどうかはわからないように、時代の流れや環境によって、だいぶ違うよということが言いたいのです。
自己肯定感の話
というので、やっと自己肯定感の話に戻るのですが・・・。
僕は、自己肯定感が少なくて、自分がすごい人だとか、自分はイケてるとは全く思えないのですが、「人類としてはできそう」というのはあるのですね。
100m走でいうと、世界トップの人は9秒台であり、僕が走ったら20秒とかかかると思うんですけど、いってもそのくらいです。なので、いうても個人の差はそこまでない気がするんですよね。
つまり、「人類としてその役割ができそう」であれば、「自分もできる可能性が高い」と考えるほうが自然です。むしろ「他の人類には出来て、自分は特別出来ない」と考えるほうが変です。自分だけ特別、と考えるので、ちょっと自意識過剰です。
という自己肯定感なんてなくても「人類肯定感」みたいなものを持てば、割と自信もって行動できるんじゃないかなーと。
なので、もし成功したい、とか、何者かになりたい、というのであれば、今の時代、何が求められていて、どの役割があいているか、その役割をいかにこなせるか、を考えるといいのかもしれません。
というわけで
自己肯定感なんかを高めなくても、論理的に考えると「他の人にはできるなら、自分でもできそう」と考えられるんじゃないかなーという話しでした。
自分に自信がない人が「自己肯定感を高めなければいけない!」と思いつめたあげく、「自己肯定感があがらない自分はダメなんだ」という悪循環に入るくらいなら「人類ならできるんじゃないか」というふうに考えて、やれるって思ったほうが楽なんじゃないかなーと思っているので、もしよければそう考えてみて下さい。
--- 😎ここからCM😎 ---
こんな感じのコラムとか雑記をよく「アル開発室」っていうコミュニティでも書いてますんで、よければ入会してみてくださいー!初月無料です。